ADVENTUREプロジェクト リーダーインタビュー

~01 アライドエンジニアリングとの出会い~

当社の製品「ADVENTURECluster」のルーツとなった「ADVENTURE」プロジェクト。1997年の夏、若手の有望研究者であった吉村忍先生がリーダーに就任し、日本学術振興会未来開拓学術研究推進事業の計算科学分野における一つのプロジェクトとしてスタートしました。
「ADVENTURE」プロジェクトの成果物は国産並列アプリケーションとして、現在も様々な研究教育機関や企業で活用されています。そんな「ADVENTURE」の生みの親である東京大学の吉村先生に開発当時のエピソードを伺いました。
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吉村 忍 先生 / ADVENTUREプロジェクト・リーダー / 東京大学 大学院工学系研究科システム創成学専攻 教授

日本発の並列汎用計算力学(CAE)ソフトウェア誕生への切望

―ADVENTUREプロジェクト開始当時の状況をお聞かせください。

1980年代半ば、私が学生として東京大学教授(当時)の矢川元基先生の研究室で計算力学や有限要素法の研究を始めた頃にさかのぼりますが、当時は並列計算機・高速計算機を用いた大規模計算が、少しずつ脚光を浴びてきた時期でした。

世界的にも汎用コード並列化の取り組みや、そのためのアルゴリズムに関する研究が、数多くの研究機関・企業で活発に進められ始めている状況でした。

この頃、すでに日本にも有限要素法の汎用コードはありましたが、日本の研究者として課題も感じていました。一つは日本製の汎用コードがほとんどないこと、もう一つはコードができても並列化の実用化段階にはまだまだほど遠い状況であったことでした。

数少ない国産コードに、有限要素法ではFINAS (ファイナス/1976年~)、流体解析ではα-FLOW (アルファーフロー/1993年~)がありましたが、この当時は並列化には対応していませんでした。もちろん、日本から研究論文は活発に出ていましたが、汎用ソフトウェアとして実際に産業界で使えるものはほとんどありませんでした。

このような状況の中で、日本の計算力学の学術分野を牽引されていた矢川先生や多くの先生方は、新しい時代に対応できる「日本発の汎用計算力学ソフトウェア」を何とか作り出したいという、強い想いを持っていたようです。

FINASとα-FLOWを並列化対応させるための研究会が幾度か開かれ、私自身も駆け出しの研究者として矢川先生と一緒にそういった研究会に足を運びました。

プロジェクト発足の契機となった科学技術基本法の制定

私の博士課程は1987年に終わり、同年4月から大学教員として研究生活をスタートしましたが、ADVENTUREプロジェクトが始まる1997年までの10年間は、日本の計算力学コミュニティーが抱える国産汎用計算力学コードへの渇望感を感じながら研究活動を行っていました。

その後、1995年に科学技術基本法が初めて制定され、1996年~2000年に第一期の科学技術基本計画が策定されたことをきっかけに、大型の研究資金を投入し大学の研究開発を活発化させようという動きがスタートします。

その中で、1996年に日本学術振興会の未来開拓学術研究推進事業が始まり、様々な学術分野がピックアップされ、それぞれ研究チームが編成されました。この事業に関しては東大総長も務められた、東京大学名誉教授の吉川弘之先生が中心となって全体をまとめられていました。

計算科学領域を推進する委員会では、委員長に矢川先生、委員には物理・化学・生命科学・天文・工学・構造・流体・数学・計算機科学などの第一線で活躍される各専門のリーダー的先生方が集まり、幅広くかつ新興の計算科学分野をどのように推進するか議論が始まりました。

取り組むべきテーマはトップダウンで委員会から提出され、それに対する具体的な提案はボトムアップで委員の先生方が推薦する若手の先生達から提出されます。その中から私たちが提案した「設計用大規模計算力学システム開発(ADVENTUREプロジェクト)」が採択されたことで、物語が具体的に進みだします。

計算科学冊子(1998)、報告書

日本学術振興会 計算科学冊子(1998)、報告書(1997-1998)

プロジェクトの発足から始動までの葛藤

―ADVENTUREプロジェクト・リーダーを担当することになった経緯をお聞かせください。

プロジェクトが本格始動するまでの間にもストーリーがあります。

テーマが選ばれる約半年前、私は日本溶接協会の委員会にて委員長代理として会議を行っていました。委員長は矢川先生でしたが、その時は別件の用務があるということで、私が会議を仕切っていたのでした。その会議の開催中に突然矢川先生から声を掛けられ、その時初めてプロジェクトへの参画を打診されたのです。

「新しいプロジェクトが始まる。これまでに例のないような大きいプロジェクトだ。分野は計算力学関係なので、我々としても是非チームを組んで応募をしたい」

矢川先生のお話を詳しく聞くと、プロジェクトのテーマは有限要素法、並列環境で動く汎用の計算力学システムの開発でした。

その当時は主に流体などで用いられる差分法のコードの並列化は先行している一方、構造向けの計算力学解析コード、特に有限要素法の汎用コードの並列化は難題ばかりで、進展がほとんど見られない状況でした。

当時、同様の課題解決に向けて、ヨーロッパでも汎用コード並列化のプロジェクトがいくつも立ち上げられていましたし、欧州連合(EU)の資金による開発プロジェクトもありましたが、いずれも成功はしていませんでした。

私自身、それまでも計算力学ソフトの並列化のために、イギリスのエジンバラ大学の並列計算センターや、グリニッジ大学、ドイツのボン大学、シュツットガルト大学、米国のカリフォルニア工科大学、カリフォルニア大学サンディエゴ校、ミネソタのクレイ・リサーチ社、海外CAEベンダーなど世界中の研究開発拠点を訪問し、情報収集を行っていました。

グリニッジ大学では並列化に必須の領域分割ソフトウェアの開発状況を伺い、また、クレイ・リサーチ社ではハードウェアに関する先端の研究内容を調査しました。

海外のCAEベンダーを訪問した際には、100万行クラスの汎用コードに新機能を追加するごとに発生する不具合について、膨大な人手を掛けてあらゆるチェックをしているという話を聞き、汎用並列化コード製品化に向けた地道な努力に対して驚くと同時に感銘を受けたことを今も覚えています。

このような経験や知識から、新しい有限要素法の汎用コードを開発するという本プロジェクトは大仕事になるのは分かっていましたし、ソフトウェアを作ってそれを確実に動くものにするという計画は、要素技術に関する研究や論文作成などとは違いとても壮大な話だということが分かっていました。

それに加え、矢川先生は推進委員会の委員長なので、必然的にそのプロジェクトの代表は私が務める必要がありました。当時私は37歳で、これは大変な労力を要する活動だと思い、他の研究も行わなければならない現状から、プロジェクト参画の話について最初は断る決断をしました。

これを伝えると、矢川先生はこうおっしゃいました。

「君が断ったら、我々は研究室としてこのプロジェクトに参加できないことになる。我々が参加しなかったら今回のようなチャンスは二度とない」

それは、領域分割法やメッシュ生成の研究、可視化など、計算力学ソフトに関わる色々な研究を行ってきた自分にとっても正に同じ認識でした。そこからさらに何日間か悩み、プロジェクトのリーダーを引き受けたならば他の研究ができなくなると葛藤しつつも、人生の一大決心として引き受けることに決めました。

その後、1997年8月にプロジェクトが本格的にスタートします。

成功に導くための開発メンバー、そしてソフトウェア企業の選定

―研究メンバーの選定、そして当社アライドエンジニアリングとの関わりについてお聞かせください。

これは私の性格、研究者としての特性でもあると思っていますが、プロジェクトのリーダーを一旦引き受けると決めたからには、成功に導くための必要な条件を徹底的に考えました。本プロジェクトの成功には、慎重な開発メンバー選びが必要であり、また産業界で利用できる汎用コードを作るためには当初からソフトウェア企業にプロジェクトに参加していただくことが必須と考えていました。

大学側の開発メンバーには、最先端の理論・アルゴリズムを理解していると同時に、信頼できるプログラムを書けることが必須と考え、当時助手であった塩谷隆二先生(現東洋大学教授)をはじめ、研究室の若手スタッフや大学院生、共同研究者から選定しました。

また、ソフトウェア企業の選定も難しいものでした。この困難なプロジェクトを成功させるためには、通常のソフト開発会社との契約であるような、仕事をただ委託して成果物を受け取るという関係性では、明らかに不足です。

プロジェクトに参加するソフトウェア会社には、如何にプロジェクトの全体像を理解して主体的に取り組んでいただくか。そして大学側メンバーと密接に連携してアルゴリズムの研究開発、そしてコーディングを行い、数値演算処理の高速化と頑健性など最大限の性能向上を目指していく。こういったことが可能な企業と組むことが必須条件と思われたのです。

このような難しい条件を満たすソフトウェア企業はどこかと考えた時に、アライドエンジニアリングの当時の社長であった秋葉博さん(現東京大学/電力中央研究所 客員研究員・前日本応用数理学会会長)との関係に思い当たったのです。

秋葉さんは矢川先生と私の指導の元、ご自分で確率論的破壊力学分野の研究を行っていました。私たちは、一緒に共同研究や論文作成を行っていたので信頼感がありました。

秋葉さんもご自身の会社の新製品開発と新規分野開拓を考えていたところで、是非プロジェクトに参加し、難しいけれども計算科学の未来を切り開く課題に挑戦したい、という意思を示していただきました。また、このような研究開発に対して身を持って理解しようとする意欲的な社長の元で働くアライドエンジニアリングの皆さんであれば、一緒に取り組むことで成功を収めることができるのではないかと考えました。

当初は、大学が保有する理論・知識を教え、プログラムをプロトタイプとして提供し、アライドエンジニアリングの技術者にも成長していただきながら一緒に成果を出すことを目標に、アライドエンジニアリング社との共同研究がスタートしました。秋葉さんとはアメリカ出張の際のご一緒となったフライト中に、これから始まるプロジェクトの未来について何時間も語り合ったこともあります。

こうして、ソフトウェア会社はアライドエンジニアリングに決まり、その後インターフェースに関してはもう一社の企業、研究室OBの三好昭生さんが社長を務めるインサイトに入ってもらいました。

研究室OBを含めて、准教授、講師、助教、ポスドク、博士・修士課程の学生など、20~30代の若手メンバーからなる研究チームを作り、メンバーには汎用コードの様々な理論を熟知されていた慶應義塾大学助教授(当時)の故野口裕久先生もいらっしゃって、喫茶店で開発について色々お話ししたことは今でも深い思い出です。

  • FINASは伊藤忠テクノソリューションズ株式会社の登録商標です。
  • α-FLOWはみずほリサーチ&テクノロジーズ株式会社の登録商標です。
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